帰り道

 小学四年一学期中頃、担任の先生から、今度隣の組に転校してきた生徒について、いろいろな注意を受けた。
 今度転校してきた子は身体が丈夫でなく、手術を受けたばかりだから、あまり激しい運動などに誘わないように、云々・・・。

 学校の行き帰りに彼を見かけたが、身体はぼくより大きく、随分大人びて見えた。
 家がお金持ちだったのか、どこかしら上品な印象を受けた。

 ある日の帰り道、彼が信号待ちをしているところへ、ぼくが行き会った。彼は信号の手前にあるアパートの階段に腰掛けていた。市電の大通りは信号待ちが長く、道の真ん中を路面電車がモーターを呻らせスピードを上げていく。
 電車はそのまま南下すると、マネキンの首が並ぶ美容学校を横切り、御幸橋を渡る。橋の向こうはもう海で、路面電車が海を渡るように見えた。

 ぼくから話しかけたのかどうか忘れてしまったが、彼と帰り道で顔を合わせると喋るようになった。なんでも彼は腎臓が悪いらしく、これまで入退院を繰り返してきたという。彼の名も、どこの学校から来たのかも、すっかり忘れてしまったが、顔と全体の印象は、はっきりと辿ることができる。

 彼は、息を止めて歩こうと言い出した。手で鼻と口を押さえて息を止め、どこまで歩けるかやろうと言う。ぼくは思わず、大丈夫かと聞いたが、彼は大丈夫だと言う。
 いつもの市電の大通りの信号待ちから息を止め、電車を見過ごし、横断歩道を渡る。渡ったところの配給所(米屋をそう呼んだ)前でぼくは我慢できず、ぷはーっと息をしたが、彼の手はまだ口と鼻を覆っている。
 彼はそのまま、どんどん歩いていった。凄いなあ、と感心しながら、彼の横に付いて歩いた。
インチキしてるんじゃないかと尋ねたが、彼は手で口と鼻を覆ったまま、首を横に振った。
 黙々と歩いていき、久里川という料亭の前あたりで手をはずし、ぷはーっと息をした。凄い距離だ。プールだったら新記録が出るんじゃないか、と言ったりした。
 先生の「激しい運動に誘うな」という注意が頭をよぎったが、こんなに息を止められるんだから、全然大丈夫じゃないか、と思った。
 それ以来、彼と帰り道で顔を合わせるたび息止めをやったが、彼はいつでも一番だった。目をつぶったまま歩いていく種目でも、やはり彼は器用に、黙々と歩いていった。

 彼がいつ転校したのか、覚えていない。
 やがて夏休みに入り、もう彼はいなかった。また入院したんじゃなかったか。
 彼ならプールで潜ったら凄い記録が出せるのに。
 ぼくは夏休みの間、そんなことを考えていた。

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